原研哉氏の「デザインのデザイン」という本を読んでいたんですけど、この部分が非常に印象に残ったんです。ちょっと長いですが、引用してみます。
「東京は好奇心の旺盛な街だ。世界のどの都市よりも他の文化から情報を集めることに熱心である。そしてそれらの情報をていねいに咀嚼して、世界に起こっていることをリアルに理解しようと勤勉な知性を働かせている都市でもある。自分たちの立っている場所が世界の中心ではない、そしてそもそも世界に中心などないのだという意識がその背後には働いているような気がする。だから自分たちの価値観で全てを推し量るのではなく、他国の文化の文脈に推理を働かせつつそれを理解しようとする。」(p.155)
もうひとつ、内田樹先生の「日本辺境論」。これもちょっと引いてみます。
「日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的位置がさだまる。よその国が示すヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える。」(p.38)
ちなみに、内田先生は日本人がこんな「辺境性」を持っていることを別に否定的に書いてらっしゃるわけじゃないです。ただ「そういうものだ」と書いておられる。また、この本では、梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」を引用していて、それは以下のとおりです。
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している。一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。」
* * *
これね、海外で生活しているからかもしれないですけど、実感としてこのとおりなんですよね。有史以来、日本は中華であったことはない。常に辺境であり、辺境としての国民性をもって強かに生き残ってきたんですから、自ら世界に範を示すことが生来的には身に付いていない。別にいいとか悪いとかいう話じゃなくて、そう。
ミクロの現場では、「べき」論を以て雄弁に語る欧米人を前に、気後れすることも多いです。しかし、私の英語力の問題もありますけど、英語力が十分だったとしても、ああいう風には語らない、語れないことが多いなと思うこともしばしばなんです。常に、周りの考えを見て、自分の考えを検証している自分がいます。
* * *
日本の国際協力事業の現場に携わったことがあるんですが(今も携わっていますけど)、日本の国際協力の特徴に「要請主義」というのがあります。原則的に、相手国側から「要請」されたものに対して応えるという方針です。こちらから押し付けない。あくまで相手国側の考えを尊重して、「うちの国の開発にはこれが必要なので協力してください」と要請されたものについて協力を検討するという原則があります。
もちろん、「おたくの国の発展にはまずこういうところから手を付けるべきなんじゃないですか」と日本側から提案して、最終的に相手側に要請させるということも少なくないので、いつも「ご用聞き」だけをやっているわけじゃないですが、原則は「要請主義」です。また、これは「ownership」の強調という日本の支援の特徴も同時に説明しています。すなわち、日本はあくまで「支援」「協力」はするけれども、事業の主体はあなたの国なのですよ、プロジェクトはあなたの国が実施したいとして日本に支援を要請しているから日本は支援するだけですよ、という「当事者感覚」を強調することにつながってます。相手国側が自分で考えて必要だと思って要請してくる、その事業は相手国のものです。日本はそれを支援する。
押し付けないのです。相手国の言い分を聞く。相談に乗る。その上で助言する。開発途上国には自国の開発課題について取り組む政策や事業計画を策定する能力も覚束ないところも多くて、まともな要請を出すこともままならないという国も多いので、まず相談に乗る、ということも少なくないです。結果として、事業開始までにやたらに時間がかかることも少なくないですけど、事業計画の形成段階から、相談に乗って議論を導くところから援助が始まっていると見ると、時間がかかるのも仕方がないなという面もあるんですよね。
で、なぜいきなり日本の国際協力の話をしているかというと、この日本の国際協力の特色も、自分たちの価値観を絶対のものとしない、どこか別のところにヴィジョンがあって他所様のヴィジョンに照らして自分のアイデンティティを確認する、という日本人の特色が非常によく反映されているシステムに見えるからなんですよ。途上国とはいえ、相手国の考えには耳を傾け、一緒に考えてみる。既成の「正解」を安易に持ち込むようなことはとりあえずしない。
欧米諸国による国際協力事業は、パッケージを持ち込むようなものが多いんです。エイズ対策はこう、水・衛生問題対策はこう、食料支援はこう、という、すでにデザインされて出来上がった事業計画を持ち込むことが多いように見えます。これが定石、正しい対応というもの用意してきて現地で指導し適用する形態です。さらにキリスト教系の援助団体ともなると、自分たちの価値観まで一緒に広めようとしたりして。自分たちの範に従えばよろし、という中華な空気が感じられることも少なくない。
そういう欧米式の援助も効果は高いです。特に即効性が高いことが多い。日本の支援がいつまでも始まらずだらだらしている間にバンッと資金と人とを投入して成果を上げる局面も何度も見ました。
それもよい。否定はしないし、ひとつのやり方だと思う。でも、相手国側の文化的文脈に合致していなくて、一時の成果だけで長続きしなかったり、時に傲慢に感じられたり、あるいはたとえば「民主化の支援」のような政治的に敏感な分野では原理的主義的な危うさも感じたりする。
世界の先進国、援助国による援助事業は、みんなそれぞれに個別の事情、特色を持っていますけど、日本のODAも例に違わず「要請主義」「ownership」で代表されるような独自色があります。上記で引用した識者の方々の日本、日本人の特徴についての評を、人の顔色ばっかりうかがって情けない、という風に見ることもできるでしょうが、好意的に解釈すれば、相手のことをよく考えている、ということです。日本の国際協力にも、その特徴がよく反映されているように思うのです。
まあ、実際の現場には、さらにさまざま事情があって、ここで書いたようにすっきり「日本はこう、欧米はこう」と割り切れないことも多いですけどね、実は。
November 28, 2010
November 15, 2010
「頭がいい」と「物知り」
「ソーシャル」なサービスが興隆したこともあって、従来型のマスコミに頼らずに現場の情報が入手できるようになりました。当事者の弁が聞けるようになったし、マスコミの舞台裏も見えるようになりました。
twitterだのなんだのっていうツールを活用していると、アフリカの当地のようなネット接続環境が悪くて動画なんかのリッチコンテンツの閲覧が難しい場所にいても、世間で、社会で、世界で起きていることについての最新のニュースやその当事者の弁、さらにそれについての専門家の分析から識者の評価、一般の人々の反応まで見ることが出来る。
一時情報に近いところに誰もが立てて、興味のあることについては深入りして調べることもできる。機械が手足の能力を拡大し、自動車の普及によって人の移動能力が拡大したのと同じように、ネットによって人の目や耳といった感覚器の能力が拡大されたような感覚です。
ただね、毎日、たくさんの情報に接して、そのそれぞれの事象にすでに多くの人が多くの意見を述べ、分析し、評価をしているのを見続けると、それじゃあ果たして自分はどう考えるのか、ということに結論を出すのが随分難しくなったように思うんです。
「それもそうだ。」「そっちの言うことも一理ある。」「でも現実はそうだよね。」「やっぱりおかしいんじゃない?」
みんなもっともらしくて、「私」の意見はどうなのか決めかねる状況が増えているような。
* * *
なにかの計画を立てたり、なにかについて論説したりするときに、手元に資料を集めて机上で検討しているときには、思い切った結論を述べたり、立派な理論を主張したりできるのに、その現場に行って生の声を聞いて現実を深く知ってしまうと、途端に歯切れが悪くなるというのは何度も経験したことがあります。「そうは言っても、これが現実だからねぇ。」「お言葉ごもっともだけど、でもさぁ。」そんな感じです。
現場にいる人々に対する情に流される、というのも多分にありますけど、机上で考えていたときには見えなかったことが見えてきて、考慮に入れるパラメーターが増えて判断が難しくなる、という感覚ですね。
ネットが社会のプラットフォームとしてこなれたものになってきて、これと同じ感覚を覚えます。机上、というか端末の前に座ってしまうと、現場に行っていなくても現場に近いところからの声が聞こえる。さらにそれに対する多くの意見も聞くことが出来る。
* * *
ネットの普及によって、だれでも擬似的に現場を見ることができる。少なくとも現場に近いところの人の声が聞ける。これは素晴らしいことだと思うよ。でも、他方では今まで以上に「私」の判断力が試されているように思います。
「じゃあ、あなたはどう考えるのか。」
たくさんの情報が入手可能になった分だけ、パラメーターが増えた分だけ、考える力がシビアに試されるようになったよね。
「考える力」「賢さ」、さらに言い換えれば「教養』「英知」っていうのは情報や知識を溜め込んでいるのとは違う。情報や知識を持っていることは前提条件で「考える力」っていうのは次元の違うことだっていう、当たり前のことを改めて認識しています。
と、ごにょごにょ御託を並べてますが、要は「頭がいい」と「物知り」がイコールではないってことは、ネット社会になって一層痛感させられるよね、って話です。
twitterだのなんだのっていうツールを活用していると、アフリカの当地のようなネット接続環境が悪くて動画なんかのリッチコンテンツの閲覧が難しい場所にいても、世間で、社会で、世界で起きていることについての最新のニュースやその当事者の弁、さらにそれについての専門家の分析から識者の評価、一般の人々の反応まで見ることが出来る。
一時情報に近いところに誰もが立てて、興味のあることについては深入りして調べることもできる。機械が手足の能力を拡大し、自動車の普及によって人の移動能力が拡大したのと同じように、ネットによって人の目や耳といった感覚器の能力が拡大されたような感覚です。
ただね、毎日、たくさんの情報に接して、そのそれぞれの事象にすでに多くの人が多くの意見を述べ、分析し、評価をしているのを見続けると、それじゃあ果たして自分はどう考えるのか、ということに結論を出すのが随分難しくなったように思うんです。
「それもそうだ。」「そっちの言うことも一理ある。」「でも現実はそうだよね。」「やっぱりおかしいんじゃない?」
みんなもっともらしくて、「私」の意見はどうなのか決めかねる状況が増えているような。
* * *
なにかの計画を立てたり、なにかについて論説したりするときに、手元に資料を集めて机上で検討しているときには、思い切った結論を述べたり、立派な理論を主張したりできるのに、その現場に行って生の声を聞いて現実を深く知ってしまうと、途端に歯切れが悪くなるというのは何度も経験したことがあります。「そうは言っても、これが現実だからねぇ。」「お言葉ごもっともだけど、でもさぁ。」そんな感じです。
現場にいる人々に対する情に流される、というのも多分にありますけど、机上で考えていたときには見えなかったことが見えてきて、考慮に入れるパラメーターが増えて判断が難しくなる、という感覚ですね。
ネットが社会のプラットフォームとしてこなれたものになってきて、これと同じ感覚を覚えます。机上、というか端末の前に座ってしまうと、現場に行っていなくても現場に近いところからの声が聞こえる。さらにそれに対する多くの意見も聞くことが出来る。
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ネットの普及によって、だれでも擬似的に現場を見ることができる。少なくとも現場に近いところの人の声が聞ける。これは素晴らしいことだと思うよ。でも、他方では今まで以上に「私」の判断力が試されているように思います。
「じゃあ、あなたはどう考えるのか。」
たくさんの情報が入手可能になった分だけ、パラメーターが増えた分だけ、考える力がシビアに試されるようになったよね。
「考える力」「賢さ」、さらに言い換えれば「教養』「英知」っていうのは情報や知識を溜め込んでいるのとは違う。情報や知識を持っていることは前提条件で「考える力」っていうのは次元の違うことだっていう、当たり前のことを改めて認識しています。
と、ごにょごにょ御託を並べてますが、要は「頭がいい」と「物知り」がイコールではないってことは、ネット社会になって一層痛感させられるよね、って話です。
November 12, 2010
18世紀以来の外交の変革期、かも?
もう議論も出尽くした感がありますね、尖閣諸島沖の海上保安庁巡視艇と中国漁船の衝突の様子を収めた動画がYouTubeで流出した件。
で、それに関して、なんら目新しい答えや意見を出せるわけではないんですけど、ただ、今回の海上保安庁の動画流出の騒ぎを見ていて、政治や外交の世界も、ネットの世紀になって新しい時代に入りつつあるのだなぁと感じたりなんかしてるので、ちょっとだけその感想を書き残しておこうかと。
外交ってさ、古くは国王とか皇帝とかの専権事項で、要は王様が使節を送って外国と物事の調整をする作業だったわけでしょう。成功も失敗も最終的には王様自身の威信の問題で、王様の責任だったんですよね。そこで民が意識されることは少なくて、国家を体現する王様とその取り巻きや貴族達だけが情報を独占してた。民は戦に駆り出されるばかり、って時代だったはず。
ところが、18世紀頃から今風の議会政治が成立する国が出て来て、民主制、議会制民主主義の国が出て来た。外交は政治を通じて間接的に民の信託を受けた外交の専門家が行うようになった。で、この時代から新聞というメディアも発達してきて、主権者たる国民も、曲がりなりにも情報に接することができるようになってきて、「情報を持った民がいて、少なくとも建前上は最終的には彼らが決める」という新しい環境を前提とした、現代にまで続く外交の手法が構築されていったんですよね。もちろん紆余曲折があり、様々な問題や失敗も経験してるんですけど、外交の秘密保持と情報公開のバランスとか、政府と外交官と新聞の関係のあり方とか、民主外交に必要なノウハウや経験が積み上げられていったわけです。
そしてラジオ・テレビの時代がきた。新聞より速報性があり、民に対する訴求性も高いメディアなので、またそこでも外交の新しい方法論が積み上げられていったんでしょう。が、しかし、それは新聞というメディアとの付き合い方の延長線上にあったように思います。新聞より速い、新聞より情報量が多い、という違いはあれど、情報の流れ方には基本的に違いはない。そう、「マスメディア」であることには変わりない。
ところが、ネットの時代は本質的に新しい。政府と外交官とマスメディアの3者の間で培われた枠組みの外側に、まったく新しい情報のルートができつつあるんだと思うんです。だれしもが新聞やテレビの力を借りずに情報を拡散する力を得て、この3者のコントロールの及ばないところで情報が大々的に流れるようになってますよね。Wikileaksも、公安情報の流出も、海上保安庁の動画流出も、今までとは全く違う情報の流れを作っている。従来型のマスメディアの枠外の話になってる。
確かにすごいことになってきたんじゃないですかね? 封建時代の外交から近代外交に移り変わった18世紀以来の大きな地殻変動のような気がしているんです。「外交と情報」という視点から見ると、18世紀初頭以来の、2、300年ぶりの新局面じゃないかと。国民主権と言いながら、選挙の時以外は観客に過ぎなかった市民が、ネットというプラットフォームの上にソーシャルメディアという情報空間を得て、政治と外交とマスメディアという既存3者が300年安住してきた心地良い空間を激しく揺さぶっている。そんな感じがするんですよね。
だったら、この新しいセットアップのもとでの外交はどうあるべきなのか。情報のコントロールはどうあるべきで、どういう風な政治が求められて、市民にはどんな教養が必要とされるのか。私には今のところはなんの回答もないんですが、ただとにかく、私たちは新しい地平に立っているんじゃないかなー、すごいことになってきたなー、というのは実感するんですよね。
で、それに関して、なんら目新しい答えや意見を出せるわけではないんですけど、ただ、今回の海上保安庁の動画流出の騒ぎを見ていて、政治や外交の世界も、ネットの世紀になって新しい時代に入りつつあるのだなぁと感じたりなんかしてるので、ちょっとだけその感想を書き残しておこうかと。
外交ってさ、古くは国王とか皇帝とかの専権事項で、要は王様が使節を送って外国と物事の調整をする作業だったわけでしょう。成功も失敗も最終的には王様自身の威信の問題で、王様の責任だったんですよね。そこで民が意識されることは少なくて、国家を体現する王様とその取り巻きや貴族達だけが情報を独占してた。民は戦に駆り出されるばかり、って時代だったはず。
ところが、18世紀頃から今風の議会政治が成立する国が出て来て、民主制、議会制民主主義の国が出て来た。外交は政治を通じて間接的に民の信託を受けた外交の専門家が行うようになった。で、この時代から新聞というメディアも発達してきて、主権者たる国民も、曲がりなりにも情報に接することができるようになってきて、「情報を持った民がいて、少なくとも建前上は最終的には彼らが決める」という新しい環境を前提とした、現代にまで続く外交の手法が構築されていったんですよね。もちろん紆余曲折があり、様々な問題や失敗も経験してるんですけど、外交の秘密保持と情報公開のバランスとか、政府と外交官と新聞の関係のあり方とか、民主外交に必要なノウハウや経験が積み上げられていったわけです。
そしてラジオ・テレビの時代がきた。新聞より速報性があり、民に対する訴求性も高いメディアなので、またそこでも外交の新しい方法論が積み上げられていったんでしょう。が、しかし、それは新聞というメディアとの付き合い方の延長線上にあったように思います。新聞より速い、新聞より情報量が多い、という違いはあれど、情報の流れ方には基本的に違いはない。そう、「マスメディア」であることには変わりない。
ところが、ネットの時代は本質的に新しい。政府と外交官とマスメディアの3者の間で培われた枠組みの外側に、まったく新しい情報のルートができつつあるんだと思うんです。だれしもが新聞やテレビの力を借りずに情報を拡散する力を得て、この3者のコントロールの及ばないところで情報が大々的に流れるようになってますよね。Wikileaksも、公安情報の流出も、海上保安庁の動画流出も、今までとは全く違う情報の流れを作っている。従来型のマスメディアの枠外の話になってる。
確かにすごいことになってきたんじゃないですかね? 封建時代の外交から近代外交に移り変わった18世紀以来の大きな地殻変動のような気がしているんです。「外交と情報」という視点から見ると、18世紀初頭以来の、2、300年ぶりの新局面じゃないかと。国民主権と言いながら、選挙の時以外は観客に過ぎなかった市民が、ネットというプラットフォームの上にソーシャルメディアという情報空間を得て、政治と外交とマスメディアという既存3者が300年安住してきた心地良い空間を激しく揺さぶっている。そんな感じがするんですよね。
だったら、この新しいセットアップのもとでの外交はどうあるべきなのか。情報のコントロールはどうあるべきで、どういう風な政治が求められて、市民にはどんな教養が必要とされるのか。私には今のところはなんの回答もないんですが、ただとにかく、私たちは新しい地平に立っているんじゃないかなー、すごいことになってきたなー、というのは実感するんですよね。
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